ルックの掃きだめ

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創作の話

 創作に関するあれこれの話。私の創作遍歴だったり、創作論だったり、最近のホットトピックに首を突っ込んでみたりします。

 なんで急にそんな話?って感じですが、まあ最近ちょっと公式との向き合い方を考える日々が続いたので自己整理も兼ねつつ。ちなみに創作だなんて言ってますがこのブログで書かれる”創作”の前には基本的に(二次)が付きます。オタクなのでね。

創作遍歴

 さてまずは私の話。いやずっと自分の話ですが。
 私も創作を始めてかれこれ10年くらい気まぐれに気の赴くままにやってますが、昔の純粋な気持ちはどこへやら…というくらいにはひねくれオタクになってます。

ルック/Hru - pixiv

 私の創作の有象無象が集った今見ると顔を覆いたくなるようなものもある支部です。昔の自分を恥じるな。今の自分を恥じろ。
 ツイッターとか、私自身が見えるところで支部の垢は基本載せないのですが(こんな人間がこんな創作してるのかと紐づけられるのが何と無く嫌なので)、最近はこんなカスアカウント見てる奴らならまあ大丈夫かーの気持ちであまり気にしなくもなってる。こんな場末のブログ見に来てる奴らなら大丈夫かーの気持ちです。

 私の創作のメインは絵と小説です。それはそれは昔、DTMに手を出したこともあるんですが、圧倒的音楽センスの無さに絶望して鍵盤を折りました。別に絵も小説もセンス無いんですが、音楽は本当になんか自分で受け入れられなかった。

 お絵描きの話ですが、まあ初めは子供の落書きレベルで当時好きだったカービィを描いてました。今も好きだよ勿論。今も昔も変わらず好きなものを何と無くで描くだけなので永遠に画力が向上しませんが、それにしてもマジで上手くならないので本当にこっちもセンス無いんだなぁと思いながら描いてます。まあ数が足りなさすぎるのもそうなのですが。

 カービィはまあ見た目の通りに死ぬほど描くのが簡単なんですが、如何せんそこら辺しか描いてこなかったので、人を描くのにめちゃめちゃ苦戦しました。今もしてるわ。根本的に構造が違いすぎてマジで分からん。

 機材なんて概念の無い小学生時代でしたが、中学のどっかくらいで兄からペンタブのお下がりをもらって晴れてデジタルデビュー。色鉛筆でせっせこ塗ってたのがとても楽になりましたね。その分線引くのが5億倍難しくなりましたが。ペンタブで線引くの難しくない?ぶれっぶれだよ

 画力は上達しないくせにいっちょ前に形から入る悪いオタクの私は、色数の多い色鉛筆を買ったり、1週間くらいで挫折したコピックを買ったり、大きい方が描きやすいやろガハハとか思って気持ちでかめのペンタブ買ったり、フリーソフトでも機能を使いきれてないのにクリスタを買ったり、買って2日でゲーム専用端末になったiPadとApplePencilを買ったりしました。ほんとにお前さぁ。

 さて小説の話ですが、これはちゃんときっかけを覚えてて、いにしへの時代、SNSなんて大して普及してなかった気がする時代、掲示板とか個人HPとかが隆盛していた時代、クソガキの私はとある個人HP(だったと思う)にズブズブでして、そこの一角に掲示板的なのがあって色んな人がいろんなテーマで板建ててたんですよね。その個人HPはカービィ関係のアレで、まあ私は当時からカービィ好きだったのでその流れで辿り着いたんですが、同じように同好の士が集まってるわけでそういう話題ばっかだったんですね。んでその掲示板に所謂SSの板があって、そういうのを見て面白いな~とか思ってたらまあ自分も書きたくなるよねって話です。

 掲示板に投げた記憶は無いですが、そんなところをきっかけに小説を書き始めました。小説はイラストと違って手を出しやすいので、小説の作歴を見るとハマったコンテンツがわっかりやす~~~ってなるのですが、やっぱ表現のしやすさっていいよなって。絵と違ってぱっと見で上手い下手って分かりづらいし、今やスマホ一つあれば誰でもいつでも文字を打てる時代なので敷居も低い小説って良いなって思ってます。もちろんレベルを上げていこうと思うとそれ相応に大変ですが、私はそんな真面目に取り組んでないので関係ないです。頭の中の物語をそのまま放流するだけだよ

 画力があったら絵のほうが表現の幅は広いと思うし色々やりたいな~って思うこともありますが、画力が無いので門前払いされて小説に逃げてます。楽しければいいんですよ。

 次項で私的創作論の話をしますが、絵にしろ小説にしろ、私はやりませんがその他の創作にしろ、自分の考えを形にしてお出しするのって普通に面白いんですよね。SNSとかはそれが自分という人間により寄ってるけど、創作になるとそこが客観的になるだけで本質は変わらないと思ってます。お前もお前の頭の中を曝け出せ。楽しいぞ。

(二次)創作論

 さて創作論のお話。タイトル通り二次創作の話です。一次創作は基本しないのでね。基本私の中での創作ってこうだよねみたいな話をしますが、文脈的な話なので大体小説においての話だったり。絵に文脈を載せれるほどの技量がないのでね…

 創作において私がまず第一に意識してるのは、実現性の話。≠現実性ね。実現性ってなんぞやって話ですが、これは対象とする作品や世界観において、描きたい事象が起こる可能性の高さのお話です。まあ当然だろって思うんですが、世の創作を見てるとどうにもそんなことも無い気がするんですよね。他人の二次創作とかほとんど見ませんけど。

 この実現性の話、創作する側だけじゃなくて見る側もここを自然と考えてると思ってて、極論ですが自分の中の実現性のラインを越えたらそれが所謂”地雷”になるのかなって思います。AB論者にとってBAは実現性から大きくかけ離れているので。

 でも実際、この例で分かるように実現性のラインって人それぞれなんですよ。ABが実現性のラインに乗ってる人も居れば、BAが実現性のラインに乗ってる人も居るし、ABもBAも実現性のラインに乗ってる人も居ればABもBAも実現性のラインに乗ってない人も居る。だからこそ創作は難しいしゾーニングがどうとかみたいな話にもなる。

 例え自分が全く持って受け入れられない話でも、それを書いたやつはそれが作中で起こり得ると考えてるから書いてるのかもしれないわけで、結局人それぞれでしか無いんですよね。

 やや話が逸れましたが、私は書く時に実現性を意識してますよってお話です。結局”自分の中で”この事象は確度が十分にあるだろうかっていう判断に過ぎませんが。でもやっぱりトンチキな話を書くのは違うよね。そのトンチキのラインも人それぞれなんで(以下略)

 でもオタク、絶対に実現しない話を妄想するのも好きなんですよ。それがifストーリーです。実現性のラインには絶対に乗らないけど、それはそれとして見たい話ってやっぱりあって、そういうのをifとして昇華するんですよ。私も稀にやります。

 ただ、ifにもラインがあると思ってて、ifっていっときゃ何でも許されるわけじゃねーぞ!って感じなの本当にめんどくさいなって思います。いや俺以外はif全部許せるオタクかもしれん…
 そもそも、私はifの話は全部過去の話が起点になると思ってるのでそういうのは別にいいんすけど、所謂現パロとかクロスオーバーみたいな話は違うよなぁになる。俺はそこをifとは思わんけど、ifとして括ってるのを見たことがある…気がする。気のせいかもしれん。

 ifって大方パラレルワールドと同じで、どっか一つのきっかけや選択が本編と違ったら、みたいなもんで、世界観丸ごとひっくり返したりするのはそれはもう別の作品じゃね?になっちゃうので。2個も3個も選択をいじるより一つ大きな部分を変えるだけの方が分かりやすいよなーの気持ちでifは考える。一つの違いによってできた本編と創作の世界の差は、そのまま変化させた違いそのものが本編でどれだけ重要かを物語るものでもあるので、それを示すのもまたifの味かなと。

 ifの話に逸れちゃいましたが、やっぱり創作において世界観の維持って大事なので、それをするためにも実現性の指標は大事だと思うし、ifにも限度はあるよなというお話でした。

 

アウトプットの話

 創作における心情のあれこれの話がありましたが、それを受けて実際アウトプットするときに考えてることのお話。
 あんまよそ様の創作見ないしどう考えてるかも見聞きしたこと無いんで分かんないすけど、大体おんなじ感じじゃないかなぁとは思ってるけど。

 まずはメインに据えるキャラを考えるよね。心持ちとしてはメイン一人だったりするけど、書くうえでは動かしづらいので話の主軸には二人以上を置きがち。主軸が一人だとモノローグがちになるから書きづらいし多分読みづらい。いやモノローグパートはよく書くんですけど、それだけになっちゃうとちょっとね、っていう話。

 次に一番書きたいシーンを考える。まあオタクは常に無為な妄想をしているのでふと浮かんだシチュエーションからちゃんと文章にするか~となることが多い。自動的にキャラも決まるのでお得。

 結局二次って俺の考えたこのシチュエーションを見てくれ!の会なのでそこに辿り着くまでは前座だし書きたいシーン書いたらもう適当にエピローグを付けて終わらせがち。

 エピローグはさておき、前座パートは前座なのに全体の半分以上を占めるので蔑ろにするのも難しいよねと思いながら必死にメインシーンに辿り着ける道筋を考えてます。筆力足りないので大体辿り着くころにはメインシーンがちょっと変わる。ちゃんとプロットとか立てた方が良いんだろうけど、二次創作なんて脳内妄想博覧会でしか無いので、その労力をかけるよりも脳内をストレートにお出しした方が私は好き。別にめんどくさい訳じゃないよ。

 メインシーンに行くまでの前座に説得力が無いと、結局メインが薄くなっちゃうので前座もそれなりにひねり出すんですが、インプットが足りないので説得力のある前座が分からない。アサルトの話をすると、大体人に怪我を負わせたりしてるので戦闘シーンを書くんですが、どこまでちゃんと書くのがいいのかなと思いながらダラダラと書いてる。動きのあるシーンを文字だけで書くのムズイよね。

 ちなみにお絵描きの話ですが、文字と違って描きたいもののイメージはしやすいので、それをどう頑張って描くかを頑張るだけですね。頑張って出来たら苦労しねー。技術と練習の積み重ねですがマジで一生上手くならない。練習してないからか。

 

結び

 なんか色々書きたいことがあった気がするんだけど書き始めるとこんなんだっけって内容になっちゃったね。舞台感想とか書く時も同じ事象に襲われてる。メモ取るの大事。

 公式との向き合い方を考えるためにこんな感じで書きましたが、向き合えてるのだろうか。

 2次創作の本質って、公式が書けなかった話を書くか、公式が書かなかった話を書くもんだと思ってて、まあ後者はifになるんですけど、前者は過去の話だけど実際本編軸でも起こってる(ことが示唆されてる)話だったり、まだ書かれてない未来の話とかをオタクが勝手に妄想して埋める行為なんですよね。
 別にそれが全てじゃないしそうであれ、という話でもないけど、私はそういうもんだと思ってるしそうしたくて書いてます。

 だからこそ、公式がお出しするものを享受してそこから自分の妄想を馳せ広げるのが創作なんですけど、公式がお出しするものを受け入れられなかったらどうなん?っていうのが今ぶち当たってる問題でした。

 それを受け入れずに書くのは、良し悪しの話じゃないし別にいいんだけど、全部がifになりかねないなぁと思います。別に受け入れられない部分には触らなければいいんだけど、そうもいかん話もあるので…

 まあ二次創作なんて所詮オタクの戯言だしifだろうが何だろうが受け入れられないなら帰れ!俺は俺の書きたいもの出してるだけだ!ってものなんで勝手にしろというものなんですけどね。それはそれとして公式にはなるべく真摯でいたい人間なので私が一人で勝手に苦しんでるだけのお悩みでした。

 このブログで自己整理をしたうえで、改めて自分の創作スタンスでどう公式と真摯に向き合うかって考えたかったんですけど、基本公式に準拠すべきな思想の持ち主なので、公式との乖離が発生してる時点で俺はもう無理かもしれないになってる。

 まあ、公式との乖離が発生してるような物事で創作意欲が湧くわけも無いので、そこがあからさまにぶつかることは無さそうですが、この先コンテンツが進んで避けられなくなることは全然ありそうなんだよねぇ。この話書きたいけど公式がお出ししたカスの既成事実に阻まれるみたいなアレがいつかありそう。その時を震えて待ちます。嫌だが?

 今回は終わり。創作に引っかけて好きなシチュ、カプの要素の話もちょっと自己整理のタイミングが欲しいなと思ってるのでいつかまとめておきたいの気持ち。カプに関しては前にそれっぽいの書いたりしたけど具体的なあれこれというより一般化した話だったので、もうちょい踏み込んでね。

 

2024年3月26日